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きのうの続きだけど、もうひとつ考えたことは、2010年代を通してイノベイティブだったジャズシーンが停滞してきたのを認めざるを得ないな、ということ。2010年代前半には新鮮さと驚きをもって耳に飛び込んできた音像も、やっぱもはや普通というかバナルに聞こえてしまって(みなさんノームコアに10年先駆けてバナルというムーブメントがあったの覚えてますか)、それではもうあんまり興奮できないのだ、ということを直視させられることがここ半年くらい、多い。
その音像ってなんだったんだよ、という問いに対する答えを、具体的なディテイルぜんぶすっ飛ばしてまとめると、「楽器のできない人間が作った音楽を、楽器の弾ける人間が真似して、演奏に新鮮味を吹き込む」ということだった、いまとなってはそう総括できると思う。時間のスケールを少し大きくとってみると、音楽って(声帯を含め)楽器のできる人間が奏でるものだったわけです、ずっと。雑な話だが。
それが70年代後半から電子楽器による自動演奏やサンプリング、日本語でいうと打ち込みといわれる環境が登場して、楽器の素養のない人間が音楽を奏でられるようになった。それは最初こそ器楽の代用品であったものの、そこには楽器の修練を経た人間には出しえないサウンドが芽吹いて、特有な魅力を獲得していったわけです。それをこんどは楽器のできる側が取り入れて、その相互作用のなかで2010年代にジャズシーンで新しい音像がエクスプロージョンしたと、それが僕の雑な歴史観なのですが。
10年代もだいぶ終わりかけたいま、それがもうほんとに標準装備になっちゃって、それで最初の話に戻るけど、きのうの晩に、頂上クラスの人たちが奏でる音楽を浴びていて、うまいしすごいしかっこいいんだけど、ただ新鮮さはもうなくなっちゃったな、と、そういう感慨を抱いていました。つまり「楽器やらない人の奏でる音楽」からのおいしい影響をいったん食べ尽くしてしまった、フィードバックがいったん燃料切れを起こしたのだろう。
それにはもひとつ社会環境の変化追随もあって、去年おととしくらいからニューヨークタイムズの音楽欄もNPRミュージックも(情けないのだが定期的にチェックしている英語の音楽メディアがこれらとあとreviveしかない。reviveはムーブメントの震源地と言ってもいい存在なのにここのところ更新が極端に減ってしまって、すーごく残念)ジャズの新しい潮流、みたいな記事が増えてきていて、JTNCを読んでる日本人からすると「いまごろかよ!」って思うかもしれないけれど、まあでもそんなもんです。
そんで日本には江戸元禄の昔から「カルチュラルなムーブメントはSPA!で紹介されたら死、ノンカルチャーから発生したムーブメントはSTUDIO VOICEに載ったら死」という金言があるけれど、ようやっとメジャーなメディアにキャッチアップされ、ジャーナリストが単行本にまとめて出すようになった昨年が、ひとつの区切りだったのかな、という印象は拭えないです。だから2018年は豊かな年であったけれども同時に新鮮味はいったん消えた年として自分のなかでは記憶されるだろうし、また次のムーブメントの胎動でもあるんだろうけど、とにかくそういうことを、トッププレイヤーたちの演奏を聴きながら思っていました。
かんたんに興奮したり飽きたり、リスナーって勝手なもんだな。午後にチャイナタウンにある保険会社の窓口まで出かけて、データの不整合とオンラインアカウントのエラーを直してもらう。全員中国人スタッフでマジかって思ったけど、窓口の人はブルックリン支店の人の1000倍くらい理解力が高くて優秀で、その場で全部解決はしなかったけど、とにかく話が通じるだけでたいへんな安心感があった。アジア人優秀。という逆レイシズムがどうしても作動してしまうのを止められなかった。