ジャリがいなくなってもう17日が経ったわけだけれども、なるべく普通に暮らそうと努力しています。ほんとはもっともっと向き合っていろんなことを思い出したり言葉にしたり、ずーっと写真を見つめたりしてもいいのだろうなあとは思うのですが、実際のところを言うと、写真はもちろんジャリという音の響きや、こないだ書いた自分の日記もそうだけど、とにかくその不在を思い出すことに触れると単純に生理的に胸がぎゅーと締め付けられて動けなくなってしまうのでした。

なので、あ、これアカンやつだ、と思って、いまはなるべくその不在に直面しないようにして過ごしています。ジャリ不誠実ですまんけどしばらくはやりすごさせて。痛みを散らすようにいまは別のこととかやってなんとなくぼんやり暮らして、悲しみのインパクトが少しマイルドになってから、ちゃんと考えたり申し訳なくなったり懐かしんだりしたいと思います。我が身可愛さで不義理を働いてたいへんにセルフィッシュで申し訳ないけど、この肋間神経痛みたいなのしゃれならんのだわ。

先週、獣医から電話があって、遺灰が届いたから取りに来いっつうんで奥さんとのこのこ行ってきた。なんでもない白い紙袋を渡されて、開けてみたら花柄の紅茶缶みたいのにちんまり収められていて、それを間抜けな感じでぶら下げながら歩いていたら、そこらへんのファンシーなティーハウスで買い物した道すがらみたいになってしまって苦笑した。火葬サービスのホームページを読んでいて気づいたのだが、遺骨、というのはどうやら欧米にはない。人も動物も、コナコナの遺灰である。

あの日本の、焼肉感や黒焦げ感は残さず、かといって粉になるほどはガンガン焚かず、拾える程度の白骨として焼き上げる火葬というのは、あれ火加減と焼き時間とになかなかの技術が必要とされるらしい。でもあの白骨じゃサラサラとは散骨できないから、散骨っていうのは遺灰にされちゃう文化圏から発祥したもんなんじゃないかな。おれもコナコナのほうが、それで砂のように風に消えてしまったほうがなんかさっぱりしてていいのかも。

骨壷はウェブサイトから買ってくれとパンフレットが入っている。アクセスしてみると何十種類の骨壷カタログで、とてもじゃないが「このデザインがいいかしら」「名入れするならこのフォントね」なんて気持ちになれなくて即閉じた。どうでもいい死のイメージはいくらでも飴玉のようにしゃぶっていられるのだが、いざ固有の死について向き合おうとすると具合が悪くなってしまうのだから、お笑いぐさである。