去る3月31日、長きにわたって支え続けてくれた相棒、ジャリが永眠しました。口腔ガンの進行により、安楽死を選びました。2001年の5月25日生まれで、うちに来たのが7月だったから、16年と半年ちょっとを一緒に過ごしたことになります。

過ごした年月の長さもありますし、ペットという関係性もあり、親や近しい人を亡くしたときとは、ちょっと別種の感慨に包まれています。やっぱり親といっても自分じゃない他人だから、その人がその人の人生を生きて死んだんだなあという、当たり前のかなしみを抱くわけだけど、どうしてもペットには自分に付随する存在というか、自分の部分をなしていたような錯覚があったようで、たとえるなら目が覚めたら肘から先を失っていたのを直視したような、マジか、ないんだ、ないのかーっていう胸の痛みに包まれ、まだそのただ中にいます。

安楽死ですから、言葉を慎まなければ私が一存で殺したということです。文字通りこの手の中で。熟慮する時間があった末のことなので殺すことに迷いはほぼ残っていなかったのですが、それでも自分で自分の腕に斧を打ち下ろしたような、取り返しのつかないことをした感覚は拭えません。

3月14日に受診した際、鎮痛剤のレベルが上がり、はっきりと安楽死をすすめられました。具体的には「もしあなたが今日安楽死を選んだとして、私は医者として早すぎるとは思いません」と。ただジャリはとにかく食い意地が張った犬で、食べることが生きる歓びと直結していたので、自力で食べられている間は見守りたい、と告げて合意に至りました。

同時に、起こりうるリスクについても説明を受けました。ひとつには腫瘍がこのまま発達し続けた場合、気道を塞いで窒息することがあること。これは苦しい死に方です。またガンが放出する物質が血管を塞いだり多臓器不全を起こしてショック的に死ぬことがあると。そして腫瘍が眼球を圧迫していたため、このまま進行すると眼球が飛び出てしまう可能性もありました。これがいちばん深刻で、実際最期の数日間は目が閉じられないまでに眼圧が上がってしまいました。

無事というのもだいぶおかしな話だけれど結局はそのいずれも起きることなく、29日の朝に少し食べたのを最後に、自力で食事が取れない状態になりました。口の中が発達し続けた腫瘍でいっぱいになり、何も喉を通らなくなったのです。痛み止めを飲むにも口を開くと激痛が走るようで、この先は腹減るわ痛いわ苦しいわだけになってしまうことが明らかでした。

ちょうど翌30日に診察が入っていたので、その際に「以前話したとおり、自力で食べられなくなる日が来ました」と告げて、少し急すぎるようにも思えたのですが、引き延ばすのは酷なこともわかっていたので、翌日に安楽死の予約を取りました。その晩は眠れないまま、ジャリの横で過ごしました。正直な感慨を述べますが、こんなにしんどいことがあるもんかねえ。

昨日の小雨が打って変わって、31日は雲ひとつなく晴れて気温も昼には12度まで上がり、私は「今日は殺すのにもってこいの日」ってやつだな、と少し皮肉めいたことを考えたりもしました(90年代にそんな本が流行ったのです)。好きだった芝生を歩かせてやりたいと思い、家族でマッカレンパークに繰り出しました。もう家を出た時点で涙が抑えられなくなっているので奥さんも私もサングラスです。最初移動用のバッグに入れていたのですが、少しでも外を見させてあげたいと思って、腕に抱いたまま街を散歩しました。

寝込み始めてから次第に衰えた足腰に、強い痛み止めの副作用も加わり、立っているだけでもよろけてしまうほどなのですが、それでも芝生の踏み心地を少しは味わってもらい、また抱きかかえながら、死ぬのは自分でもないくせに、死刑台に向かう死刑囚のような気持ちで、やたら遠回りして獣医に向かいます。うちなりの「長い長いさんぽ」でした。

いつもバカやかましいスタッフが、神妙な顔をして迎えてくれました。膝に載せたまま鎮静のための1本目の注射を打つと、5分もかからず意識が遠のいていきます。心停止をもたらす2本目の注射が打たれると、30秒ほどで呼吸が止まり、私の手の中で心臓が止まるのがわかりました。苦しい表情を見せることもなく、眼に光がなくなり、生きていたものが死体になっていきました。

ジャリ。思えば最後の排尿までよろけながら自分で済ませ、少しも面倒にはなるまいと気高いまま死を迎えました。ただ助けられ、与えられるだけの年月でした。こんなにギブアンドテイクのアンバランスな関係もこの世にないと思います。どうか安らかに。いま居間でこれをしたためていますが、もう寝息も足音も聞こえてはきません。こんな悲しいことがあるもんかね。