以前「人の作ったものには出来の良し悪し、上等下等が厳然としてある」、という内容のツイートをしたところ、軽い炎上状態になったことがある。おおよその反対意見は「良し悪しなんて誰が決めるんですか」「他人を見下して何様なんですか」「好きなものを好きと言って何が悪いんですか」といった感じだったのだが、正直、自分としては少し驚いた。

燃えると思ってなかったからだ。言うまでもなく良し悪しと好き嫌いとはたいして関係がないし、好きなこと・ものがあるのはたいへんに結構なことだし、たとえば私は高級チョコが苦手で安手のチョコレートが好みなのだけれど、自分の好きな安チョコを安いチョコだねと言われても貶されてるとは感じないし、かといって高級チョコと安チョコとは厳然として区別されるべきだろう。

なのだけれど、事実としてこれまでのツイ歴トップ3に入るくらいは反対や罵倒が寄せられたので、なんか世の中のへんなボタンを押しちゃったのだな、くらいには不思議に思っていた。それでもう何年も前の話だからとっくに忘れていたのだけれど、先日テレビを点けていたら「芸能人格付けチェック」という番組をやっていて、ははあ、これか、と思ったのだった。

いくらかバイアスのかかった要約をすると、高い肉と安い肉をブラインドで食べさせ、安い方をおいしいと言った人間を吊るし上げて笑い者にするバラエティである。正直ロクでもないな、有害だな、と思った。第一には、ほんらい高級品と安物を鑑別するゲームなのに、不正解者は安物を「好んだ」とミスリードしている。つまり良し悪しと好き嫌いを意図的に混濁させる仕立てで、そこに悪意がある。

そのうえで「安物を好む者は人間として下等である」という演出がなされており、下等ゆえにコケにして笑い者にして虐めてよいし、椅子を取り上げ床に座らせてよいし、人間性も卑しく貧しく低劣である、と番組の最後まで一貫して強く表現している。この価値観をみずからに敷衍すれば、もし自分が上等じゃないものを愛好していることになったら、笑い者の誹りを逃れ得ない、と思うはずだ。 

 ああやってシリーズが続く程度には人気番組なのだろうから、あの番組の発しているメッセージが国民的に浸透していることは想像に難くないし、ゆえに自らの趣味嗜好をジャッジされたくない、されたらたまったものではない、という忌避意識は広く共有されているのではないか。そこに大衆的みつを思想と相対主義とが都合よく吸着されて、「物事に上も下もない」「あなたが好きになったものが良いものなのだ」「これも良いしあれも良い」みたいなテーゼが普及したのではないか。

しかしそこには矛盾があって、メディア上では上等下等がコンテンツ化されて三宅裕司を笑い者にしていいのに、自分の嗜好は相対みつを主義(へんな言葉がいま誕生した)によって安全を担保されている、というのはいささか卑怯である。国民的卑怯である。ここで海の外からグダグダ述べたところで何が変わるでもないことはよくよく承知しているけれど、望むらくは上等下等、高級低級と好き嫌いとがヘルシーに分離両立した価値観が広く普及したらよいのになー。そんなことをガクトの顔を見ながら、思った。

月水金は学校までの往き帰りで2時間以上を費やしているのだけれど、そういう通勤通学時間を持つのが15年ぶりなので、いまんところは音楽を聴いたりキンドルを読んだりして、楽しい。たいして混まないのもいいし、やっぱり日本の通勤電車とは精神風土が違うので、きのうは変なおっさんいたけどさ、基本的には健やかな気持ちでいられるのがいい。贅沢を言えば、地上を走る電車に乗りたい。その話は、また。

無敵の人、というのを見た。人生初。

急行の地下鉄AトレインDトレインはコロンバスサークルを過ぎると7駅も飛ばすので、京王線特急の明大前=調布間ほどではないけれど、その間車内は閉鎖空間と化す。無敵の人はそこに乗ってきた。50代くらいのヨーロッパ系で、小太りで、身なりは貧しい。水筒サイズのBluetoothスピーカーを持っていて、フルボリュームでヒップホップを流しながら、私とドアひとつ離れたはす向かいにドカリと座った。

座っているわたしの目の前には上品な服装をした南アジア系の、ボストン眼鏡をかけた細っこい男性が立っていて、あまりのやかましさに音の方を見つめている。電車が発車してしばらくして、しかしボリュームは一向に変わらず、わたしの真向かいに座っている黒人男性がさすがに注意しようと腰を浮かしたとき、ほんとにその瞬間、無敵の人は大声で喚き始めた。

「おい移民野郎、なんで俺のこと見てる」「……別に」「なぜ俺を見据えてるのかって聞いてるんだ」「…音楽を聴いてた」「嘘つけ、俺にガン付けてただろう、お前は移民だから知らないだろうがな、そういうのをガン付ける(looking daggers)って言うんだこの国では。無礼なことなんだ。お前はどこの国で生まれた? おれはニューヨーク生まれだ。俺が教えてやる」「ガン付けたりしてない。あとあなたは落ち着いたほうがいい」

現代病、とのそしりを受けるべきだろうが、この間わたしが思っていたのは「うわーこれ動画で見たやつだ」と「動画撮りたい、でもカメラ向けたら暴れ出しそう」、あと「ぜったいこのあと『英語を喋ってみろ』って言い出す」だった。しかしながら予想は外れ、この手の動画にお定まりの「英語を話せ」は出てこなかった。理由はたぶん、移民の彼のほうが流麗な英語を話していたからだろう。

いずれにせよ見てらんなくなって、わたしと向かいの黒人の男性は目で示し合わせ、立ち上がろうと腰を浮かした。その瞬間、無敵の人はFワードなどを喚きながら柴田恭兵のような不思議なステップで、ドアふたつ向こうまでスッと遠ざかってしまった。移民呼ばわりされた彼と黒人男性とわたしは肩をすくめ、やれやれ、というジェスチュアをして、125丁目の駅に着くまでの残り何分かを、男に注意しながら過ごすことに決めた。

遠ざかっていった男は、車両の端に乗っていた太った黒人女性に黒人の使う言葉でなれなれしく話しかけ、ついで逆側の席に座っていた白人女性が抱いていた赤ん坊を、ベロベロバーとかなんとか言ってあやし始めた。男はステレオの音量をほぼゼロまで下げ、なんてかわいい赤ん坊なんだ、あなたは素晴らしい母親だ、とか大げさな身振りで言っている。電車は125丁目の駅に滑り込み、ドアが開いて、わたしと南アジア系の彼と黒人の彼とはそこで降りた。

さてわたしが何を感じたか。簡単にまとめると卑劣漢の反射神経はすごいな、ということだ。別の言い方をすると、「無敵の人」というのは「何が起きても無敵でいられるように行動する人」という意味なのだとわかった。どこまでプランでどこから無意識か知る由もないけれど、無敵の人の行動は徹頭徹尾、合理的だった。

まず爆音ヒップホップは、迷惑を撒き散らしてトラブルを呼び込むための撒き餌だろう。もし誰かが騒音を言い咎めれば、格好のトラブル発生だ。仮に黒人なら、恐い黒人に絡まれていますと周囲にアピールすれば優位に立てるし、白人なら黒人の音楽を差別するのか? お前はレイシストだな? と絡めばいい。それ以外ならこの移民野郎と言えばいいだろう。いずれにせよ喚き散らして罵倒できる相手が見つかって、お得だ。

しかし誰も相手にしなかった。そしたらターゲットの選定だ。車両にはわたしを含め他にも移民っぽい人間はいたなか、もっとも体格的に制圧しやすそうな、ヒョロっとしたメガネ東洋人に絡んだのはやはり選球眼が良い。そして車内でもっとも身体的にめぐまれていた、わたしの真向かいの黒人男性の動作には驚くほど機敏に反応した。彼が腰を浮かすたび、その瞬間に男は行動を変え、動きを封じようとした。

かつ差別的な言動を撒き散らしたすぐあと、黒人女性にフレンドリーに話しかけることで、自分が有色人種に対して差別心がないよう見せるようポーズを取り、直前の暴言の打ち消しを図った。さらに赤ん坊に対して優しいことを大げさにアピールし、自分が善良な人間であることを周囲に見せようとした。しかも赤ん坊が泣かないようにスピーカーの音を下げて。最初から周囲に迷惑な音量だと認識していたという証左だ。

もっと踏み込めば、黒人性の強く貼りついたヒップホップを流していること自体、何らかのサグい雰囲気で自己を補強したかったのかもしれないし、周囲の黒人を味方につけられると踏んだのかもしれない。とかいろいろ勘ぐることができる。いずれにせよ、このレイシズムを傘に着てトラブルを渉猟している男性にとっては、何が起きてもプラスで何が起きても無傷、何が起きてもお得なのだった。

なんだろうね、海底火山みたいな地獄のような環境で、本来毒である硫黄を養分にして生きるチューブワームとかに、ひょっとしたら近いのかもしれんね。置かれた境遇に対して最適化を図ろうとする生物の奥深さを見た気がした。あのおっさんに、何かに傷つくことのできる日がまた、来るのだろうか。風邪で寝込んでる間にジョギングする習慣が吹き飛んでしまった。まずい。

お子が保育園的なのに通い始めて、それまで発熱らしい発熱もなかったのだがすかさず風邪をもらってきて、そしてそれをピンポン感染した結果、2月に入ってからずっと寝込んでいた。カーッと発熱すればサクッと解熱しそうなものなのだが、やはり自分に体力がないせいか、モヤモヤとした症状がモヤモヤと体力を削っていく感じが続いていて、陰湿な風邪だなこれは。

寝てばかりいたら全身がバッキンガム宮殿になってしまったので、仕方なくマッサージに出ることにした。電車もしんどいのでウーバーを呼んでハタと気付いたのだが、アメリカに来てから、自分が信じられないほど変わったことがある。クルマの後部座席でシートベルトを締めるようになったのだ。

2008年くらいからタクシーが徐々に声掛けするようになって、しかし日本ではすべてハイハイと聞き流してきた。なんか、そういう醜悪な不遜さが、自分にはある。しかしアメリカに来てしばらくして、こら締めない理由はないな、くらいに思うようになった。

タクシーもウーバーもドライバーはたいてい移民で、つまり世界中の運転マナーがピンからキリまでコレクションされてる状態と言っていい。私がこれまで運転したことのある地域でもっとも運転マナーが良かったのはハワイだけれど、あれを100としたら15くらいのドライブ民度だろう、この街。

そんで事故は毎日ざらにある。しかも体感的に東京より事故の重篤度が高い。なぜかというと街中の平均巡航速度が速いからである。これはハワイもそうだけど、少々オーバーに言えば、アメリカの運転マナーに低速域は存在しない。基本50キロまではベタ踏みがマナー。

そんなわけで、だ。インターカムで本国の奥さんとスカイプ夫婦喧嘩しながら急加速を繰り返すバングラデシュ人の後部座席に座っていた私はすっかり自然と怖気付き、誰に言われるともなく静かにシートベルトを締めるようになったのであった。

いきなり話題が変わるが、小用もいつからか座ってするようになった。人間に絶対変わらないことなんてないな、と知るのもひとつの老いである。

 

 

友達のあおりを受けて5月のハーフマラソンに申し込んでしまった。まだ5、6km走ったら死んでしまうレベルなのに。そしてもう2月だ、3ヶ月しかない。なにやってるんだろう自分。ただこれくらいのプレッシャーがないと走らないので、まあ、仕方がない。そしてやっぱり時間が取れず、無駄に坂に挑むなど。20分3.3km

前の大学もそうだったけど、アメリカの大学の学期最初の週はお試し週であって、add & drop weekとかなんとか、とにかく1週目のうちは選択した授業をやっぱ止めた、ってしたり、もしくは代わりに別のものを取ったり、クラスに空きさえあればなんとでもできる。別の言い方をすると、満席のクラスにも空きが出る可能性がある。

そんなわけで履修のサイトとにらめっこしながら気になる授業に余計に出てみたり、あと学部のオフィスに授業を取得するための許可を出してくれーって言いに行ったりして、たいへんに疲労した。

面白かったのが、ハーモニーの授業が週に2コマあるんだけど、1コマは座学でもう1コマはそのとき習ってるハーモニーに基づいたインプロビゼーションの授業になっていること。ハーモニーの授業で楽器触らせてもらえると思ってなかったのでこれはちょっとうれしい。またアンサンブルとは別にジャズレパートリーって授業が必修にあって、これは1学期で15曲くらいのスタンダード曲をじゃんじゃんインストールしてコンボで演奏する、というもの。アンサンブルと違いがわかんないっちゃわかんないんだけど、とにかくフォーカスがはっきりしていて実践的なのはいいと思った。

ただ3グループ作られたけどドラマーがひとりしかいなくて、そして私のグループにはドラマーが割り振られなかった。こういう冷遇を受けると、ほんとはそんなことなくても、勝手に「ああ自分らは要らない子組なんだな」って勘ぐって決めつけてしまうところが、私にはある。とくに言葉が不自由な状況に来てからは、なおさらこの手の被害妄想が大きく作用しがちな傾向にある。たいていの疑心暗鬼は相手の言ってることを部分的にでも汲めていない不安から発生しているように思う。

20分しか走れる時間がなくて、ためしに昔走っていたときやってみたかった1マイル9分のペースで走ってみたら、15分ももたずに死んだ。こらいきなりすぎた。15分2.3km。ひさしぶりに学生に戻ったためか、脳が疲労しまくって火曜は寝倒してしまった。

授業初日だった。ハーモニーの授業は、早口だけどまあ安心感。前の学校より良いなーと思ったのは、アナライズでローマ数字と矢印に加えて、和声機能をぜんぶ書かせるところ。ノンダイアトニックのセブンスコードで1箇所、ドミナントだと書いたらサブドミナントだったところがあって、サブドミナントのキャラクターノートも含んでいなかったので、なんでだろうってなったところがあった。このレベルでわからないところがあるのは情けない。家に帰ってから調べたら古典和声のほうのサブドミナント定義で判別できたので、基本はやっぱ大事だな。

もうひと枠はキーボード基礎だったんだけど、まさかのドレミからやらされて、他の生徒が音楽科の生徒じゃないと判明したので、これはドロップすることにした。ただ代わりに何を取るかが難問だ。発音矯正がある英語のクラスを取りたいけど、これは全部埋まってる上に時間帯が被っていてキャンセル待ちも不可。英作文のクラスもちょうどいい時間帯のクラスは全部満席。生徒数が少ないので授業の選択肢が少なくて、なかなかうまく時間割が組めない。

帰りにカンタくんのオフィスを見学に寄らせてもらう。きのう日記に書いたペアーズのおもしろさについて、実際目の前でやってもらったら彼もやみつきになってしまったのだけれど、日記はたいして読まれなかったのでつまり、「実際に手を動かしてもらわないと面白みが伝わらない」タイプの文章はいまどき流行らないのだな、その文章を読んでる最中に面白みまで味あわせないと食べてもらえないのかな、とか思った。

やっぱり学生というのは何かやってますという目先の充実感が得られてしまうので、中毒性があって怖いと思った。学ぶのは楽しいし学べるのはありがたいことなのだけれど、この充実感を自我の安寧のために、つまり自分が何者かであるか手っ取り早く定義づけられるように用いるのはやはり大いに問題があるように感じる。ひさしぶりに午前から夜半まで活動したらめったやたらに疲れてしまった。走れず。

たまには実用的なことでも書いてみよう。昨年TJNY内でビッグニュースが駆け抜け、それはプライバシーに関することなのでここには書かないが、とにかくPairsというマッチングアプリが熱病的に流行した。出会いは二の次でおもしろい。もしドメスティックなマーケットリサーチが仕事に必要な人がいたら、いまもっとも信頼性高く実社会を投影している観察ツールはPairsだと断言したい。

すごく簡単に説明すると、Pairsにはかつて隆盛を誇っていた時期のmixiコミュニティが、より生々しいディテールをともなって、よりシビアに再現されているのだ。しかもほとんどのパラメータが男女別に表示されるのだった。とりあえずアプリをダウンロードして登録し、まずはrad wimpsでも米津玄師でも誰でもいいのでコミュニティ検索をして、規模感を把握してみてほしい。

そののち好きなミュージシャンのコミュニティを検索してほしい。ここで具体的なサンプルは提示しないけど、その数の残酷さ、男女比のリアルさ、そして参加者のサムネイルをめくってると立ち上ってくるセグメントの嗜好性に、たぶん震えることと思う。なにしろ参加のモチベーションが切実なので、繰り返しになるけど、いまネットでこんなに生々しい観察対象はめったにないと思う。また同業他社は数あれど、母数の大きさでPairsが圧倒的なように思う。

mixiがそうだったようにコミュニティはアーティストだけが対象ではない。マンガ、映画、小説、食品、レストラン、街、スポット、あらゆるものにコミュニティが作られていて、そしてあらゆるコミュニティから放出されている表情が、なんだかネット初期を回想してしまうほど、リアルで熱を孕んでいるのだった。いやほんま、騙されたと思って見てみてください。くそおもしろいうえに、単身者なら出会いが付いてくる可能性まであるのだし。

ひとつ難点を言うと、コミュニティ参加者として表示される異性の数と、実際に表示されるサムネイルの数にはズレがあったように記憶している。具体的にはTJNYのほかのみんなには表示されている女性が、自分にだけは見えてないことが何度もあった。つまり想像だが、年齢によって自分が表示される対象をフィルタリングできるのではないだろうか。なので年齢詐称しなかったおっさんは悲しみを抱いて眠ることになる。

そんなこんなでソファでどハマりしていたところ、後頭部に妻のしなやかな蹴りが入り、「違うの、出会いとかじゃなくて、純粋に、数字が、面白くて」ふたたび蹴りが入り、その場で私はアプリを削除することで家庭の平穏を取り戻すことに成功した。さまざまな誤解を呼びかねないところがもうひとつの難点といってもいいかもしれないが、あとこんなの世間では超いまさらなことなのかもしれないけど確かめる術がない。自分は実用的なことを書くのは向いてないねー。おしまい。

ちょっとだけ坂を入れてみたのだが、やっぱり死んだ。明らかに筋力より心肺が貧弱。30分4.9km。