twitterでは言及を控えているのだけれど、いままた、大学生になっている。言及を控える程度にはデリケートな話で、建て前としては自分の興味対象についてもう少し学び直したくて、ということになる。実際のところはまあなんというか、ヘマこいたからなんだけど、ルール上それを公言することはできないので、なんというか察してください、ええ。海外在住のみなさんはお察しのとおりです。

さてどこに通うことにしたかというと、私の出た音大もいちおう名門と言われるとこだったけど、NYCにはニュースクールやMSM、ジュリアードといった名門音大があって、しかしそれらはどこも私立で学費がバカ高いので今回はかんべんしてもらって、公立でポピュラー音楽の学部があって近郊で、ということでCCNYことシティカレッジを選んだ。院も選べたけど、学費が倍なので、学部にしておいた。

余談になるけどいまアメリカの私立音大の学費は1学期およそ200万が相場で、ふつうは年に2学期だから400万ということになる。90年代後半は1学期70万円くらいだったので20年で3倍弱、消費者物価指数はおよそ2倍なので高騰と言っていいだろう(20年物価の変わらない日本人から見たら狂騰だ)。もちろん奨学金が豊富に用意されているので、できる子はまるまる払うことはないけれど、それでも高所得の家庭じゃないとしんどそう。

かたやシティカレッジならトップランクではないけれど公立なので1学期65万円くらいで、市の補助が出れば半額だ。まあそれなら払ってもいいかということで、決めた。決めたのだけれどブルックリンからハーレムの先までは思ったより遠くて、転入生向けオリエンの初日だったきのう、すでに心が折れそうにはなった。あ、いちおうアメリカの大学を出ているので転入生という扱いになっている。

この転入という仕組みはアメリカのいいところで、ハードル低く利便性高く設計されていて、安くて入りやすいところからスタートして、熱意と実績でどんどんいい大学に繰り上がっていくような人はいっぱいいる。たとえば家がリッチじゃなくても、コミュニティカレッジとかの無料大学でがっつりがんばって最後の数学期だけ名門大に通い、少ない金額で名門大卒をゲットするスマートな子もいる。

ただそれは簡単じゃないね。低偏差値の大学と名門とされる大学、何が違うかといえば環境で、このばあい環境とは教科書でも設備でもなく人のことで、第一に学友、第二に教員、第三に職員が違う。どう違うかといえば意識の高さが違って、意識の低い人間に囲まれて努力と志を継続するのは、意識の高い人間に囲まれて同じことをする何倍も何十倍も、なんなら何百倍も難しい。

なんでこんな断定的に書けるかというと、これもいつか書きたいと思うのだけれど私は1学期だけ底辺大学に通ったことがあり、そこで見た底辺大学の現場にうちのめされた経験があるからだ。だから初めから名門の子と成り上がりの子がいたらおれは成り上がりの子のほうをより尊敬するし、あと意識高い子たちのことを意識高い高い〜とか揶揄してる大人はみんなくたばればいいと思う。意識は高いほうが、いいよ。

めずらしく朝もはよから立て続けに所用があって、日が暮れるころにはバッテリーが切れてしまい、子供より早くに寝てしまった。体力が異様に落ちている。なんとかしないと。

先日、やり手とされるフィナンシャルアドバイザーの人と話す機会があって、その会話の本筋ではないのだけれど、アメリカの人ってほんとアメリカのことしか気にしてないんだなー、と思うことがあった。その人は世界経済に目を配って投資顧問みたいなことをしたりしているのだけれど、でもその人が何を観察し何を話題にしているのかといったら、アメリカのことばかりなのだ。

なんだけど、実際のところその人は、この乱世(昨年9月にあった大きな潮目以降、世界経済は完全に乱世)に大きく読みを外すこともなく成績を出している。なんでなんだろ。って考えるとたぶん、米国市場にはグローバル企業がたくさん包含されているし、なによりアメリカの政治や景気が世界経済に与える影響は甚大なので、アメリカ中心に見てればおおかた事足りてしまうってことなのかもしれない。

同じことはカルチュアルな分野でも思うことがあって、ジャパンがガラパゴス化したしたっていうけど、ガラパゴス度で言ったら断然アメリカのほうがすんごい。邦画しか見ないアメリカ人、邦楽しか聞かないアメリカ人は日本の比じゃなく多いと感じる。だけども実際のところ、いまだに世界の潮流はポピュラー音楽でも映画でもアメリカ主導で推移しているので、それがガラパゴスには見えないという現実がある。

もひとつはさっきのグローバル企業の話みたいに、沿岸部中心に多民族社会なおかげで、国内コンテンツにいろんな国、いろんな民族からの影響がセットインされている、という側面もあると思う。いまさら言うまでもないけどアメリカ音楽が強靭な理由は、カリブやアイルランドや東アフリカやラテンアメリカや世界中からのエッセンスが溶け込んでいるからで、それは言ってみればカルチャーのグローバル企業ということだ。

すこし話がドリフトするけど昨年はサウスロンドンからの音源がたくさん届いた年で、また個人的にはパリやベルリンを旅して現地の音楽に触れた年でもあった。ところが文化的には好ましい要素満載のヨーロッパ大陸なのだけれど、こと音楽においては、まったくもって自分にとって面白みにかける音楽ばかりだった。なにより驚いたのは、これまで自分は黒人音楽ファンだと思っていたのだけれど、違った、ということだ。

ヨーロッパから聞こえてくる音楽も、半分以上は黒人によって鳴らされていたのだ。だけれどもアメリカの黒人音楽に顕著にみられるような重心の低さとレイドバック感覚が、皆無といっていいほどないのだった。つまりこういうことだ。私は黒人音楽ファンだと自認していたけどそれは誤解で、アメリカの一部黒人の奏でる音楽のファンなのであった。これはいまさらだけど結構自分でびっくりした。

言うまでもなくロンドンもパリもベルリンも多民族が混淆する都市である。だからグローバリズムないし混血性がアメリカ音楽の魅力の一因なのだとしたらヨーロッパ音楽もエンジョイできるはずだと思っていた。でも現実には違った。この事実に対する明解な回答はまだ自分では持ち得ていないのだけれど、なんだろね、混血のエレメントが違う、って話でもないような気がする。アメリカ黒人音楽のローカル性、特殊性というのを今年は考えていきたいと思っている。

きのうの続きだけど、もうひとつ考えたことは、2010年代を通してイノベイティブだったジャズシーンが停滞してきたのを認めざるを得ないな、ということ。2010年代前半には新鮮さと驚きをもって耳に飛び込んできた音像も、やっぱもはや普通というかバナルに聞こえてしまって(みなさんノームコアに10年先駆けてバナルというムーブメントがあったの覚えてますか)、それではもうあんまり興奮できないのだ、ということを直視させられることがここ半年くらい、多い。

その音像ってなんだったんだよ、という問いに対する答えを、具体的なディテイルぜんぶすっ飛ばしてまとめると、「楽器のできない人間が作った音楽を、楽器の弾ける人間が真似して、演奏に新鮮味を吹き込む」ということだった、いまとなってはそう総括できると思う。時間のスケールを少し大きくとってみると、音楽って(声帯を含め)楽器のできる人間が奏でるものだったわけです、ずっと。雑な話だが。

それが70年代後半から電子楽器による自動演奏やサンプリング、日本語でいうと打ち込みといわれる環境が登場して、楽器の素養のない人間が音楽を奏でられるようになった。それは最初こそ器楽の代用品であったものの、そこには楽器の修練を経た人間には出しえないサウンドが芽吹いて、特有な魅力を獲得していったわけです。それをこんどは楽器のできる側が取り入れて、その相互作用のなかで2010年代にジャズシーンで新しい音像がエクスプロージョンしたと、それが僕の雑な歴史観なのですが。

10年代もだいぶ終わりかけたいま、それがもうほんとに標準装備になっちゃって、それで最初の話に戻るけど、きのうの晩に、頂上クラスの人たちが奏でる音楽を浴びていて、うまいしすごいしかっこいいんだけど、ただ新鮮さはもうなくなっちゃったな、と、そういう感慨を抱いていました。つまり「楽器やらない人の奏でる音楽」からのおいしい影響をいったん食べ尽くしてしまった、フィードバックがいったん燃料切れを起こしたのだろう。

それにはもひとつ社会環境の変化追随もあって、去年おととしくらいからニューヨークタイムズの音楽欄もNPRミュージックも(情けないのだが定期的にチェックしている英語の音楽メディアがこれらとあとreviveしかない。reviveはムーブメントの震源地と言ってもいい存在なのにここのところ更新が極端に減ってしまって、すーごく残念)ジャズの新しい潮流、みたいな記事が増えてきていて、JTNCを読んでる日本人からすると「いまごろかよ!」って思うかもしれないけれど、まあでもそんなもんです。

そんで日本には江戸元禄の昔から「カルチュラルなムーブメントはSPA!で紹介されたら死、ノンカルチャーから発生したムーブメントはSTUDIO VOICEに載ったら死」という金言があるけれど、ようやっとメジャーなメディアにキャッチアップされ、ジャーナリストが単行本にまとめて出すようになった昨年が、ひとつの区切りだったのかな、という印象は拭えないです。だから2018年は豊かな年であったけれども同時に新鮮味はいったん消えた年として自分のなかでは記憶されるだろうし、また次のムーブメントの胎動でもあるんだろうけど、とにかくそういうことを、トッププレイヤーたちの演奏を聴きながら思っていました。

かんたんに興奮したり飽きたり、リスナーって勝手なもんだな。午後にチャイナタウンにある保険会社の窓口まで出かけて、データの不整合とオンラインアカウントのエラーを直してもらう。全員中国人スタッフでマジかって思ったけど、窓口の人はブルックリン支店の人の1000倍くらい理解力が高くて優秀で、その場で全部解決はしなかったけど、とにかく話が通じるだけでたいへんな安心感があった。アジア人優秀。という逆レイシズムがどうしても作動してしまうのを止められなかった。

Nubluの月曜ジャムに出かけたのだけれど、モノネオンがゲストの特別回だったせいでバケモノ揃いになってしまい、一瞬も弾けるチャンスのないままノコノコ帰ってきた。普段会うレックスとかアーヴィンとかも出番が回ってこなくて、みんなで楽器をケースにしまいながら苦笑いでショットをあける、みたいな。でも仕方ない。

モノネオンがスパットシーライト連れてきた上に、テレンス・ブランチャードがDJジンヤード(めっちゃベースうまい)とか連れて飛び入りしてきて、そんでジェイムズ・フランシーズがローズ弾いて、あとオラオラおじさんモーリス・ブラウンとか。隙間ないわ。ギタリストだけ化け物がいなくて、ボストンからの友人ジェフアンディがよく踏ん張っていた。

このNYに来てからの1年、いろんなところのジャムに顔を出して、テイストの合うところには通って、ミュージシャンの友達もいっぱいできたし、日本でインタビューを読んでいたようなミュージシャンとも演奏できて、みんな褒めてくれるし、自分も少しはレベルアップしてるような気もするけど、その「何かしてる」感は甘い毒なんじゃないかな、いまさらだけどそう思ったな。

アメリカに来てから知り合った100人くらいのミュージシャン、みんなギャラもらう程度には上手いのよ全員、でもソロミュージシャンからフックアップされたのは3年の間で2人か3人で、じゃあ自分がその初期消費税くらいに入れるかっていったら、無理だと思う。あまりにコンペティティブで、選びたい放題の買い手市場で、だったら飛び抜けて上手い子から売れていくのが当然だもん。

なんだろ、たとえばバチェラーに出てる女の子みんな美人でいい子じゃん、あんなかで自分がガラスの靴履けんの?って話ですわ。いまさらすぎるけど! 少なくともジャムに通ってるうちに誰かアーティストの目に止まってツアーミュージシャンになるなんてシンデレラストーリーは、いまの暮らし続けてても自分には起きない。それがよくよくわかった。

だからこれまでの延長線上に自分がなりたい感じのモデルはないことがはっきりした1年だったので、日々やることをすっかり変えないといけない。元旦に書いたのはそういうことです。でもだからといって何したらいいのかは、よく考えないと。

新居、というほどもう新居でもないのだが、家の近くで新しいオープンマイクのイベントがあるというので行ってみたら、以前スウィートブルックリンという別の箱でやってたボーカリストがホストだった。ハコバンのメンバーがほぼ全員変わってしまっている。いろいろ難しいのだろうなーと想像する。

というわけで知ってる人の知ってるレパートリーだったので早々に切り上げて、バードランドでやってるマリアシュナイダーのセカンドステージに間に合いそうなので向かうことにする。今年は新譜2枚のレコーディングが予定されているそうで、そこからの新曲に旧譜のいい曲が挟まるセットリスト。

新譜の片方は、GAFAによるビッグデータ支配とコントロールされたネットワークへの不安、アゲインストを曲想にしたものだという。もう片方は京都の三千院に滞在したときの豊穣な体験、禅のマインドと未知の仏具からインスピレーションを得たという。どうだろう不安にならないだろうか。私は少し、なった。

しかして新譜からの曲々は不安もそこそこにすーげービジュアル喚起力を伴った音楽がビルディングされていて、それでもやっぱり初期からのファンの人から見たら3枚目のブラジル趣味みたいに迷走に映るのかもしれない。輪郭が淡い時間が多いし、ビッグバンド的ではないし、技術的にチャレンジングなわけでもないから(演りゃ難しいのは当然として)。

新曲に共通するのは、もしキューブリックがいま2001年を撮るならマリアシュナイダーに書かせるしかない、みたいなスペイシーな感覚があった。ビッグデータ→スペイシーって連結を安易と言う意地悪な人も出るかもしれないけど、それを容易に黙らせる程度には圧倒的なビルディングがあった。ああ、どんな音像が鳴らされててもビルディングがジャズなんだだよなー。そこに作家性がある。

個人的には鞠のバウンドや鳥の声みたいなオーガニックな要素の取り込みが、より直接的に鳴らされているのが面白かった。隠喩が直喩になったような。友達が取っておいてくれた席がほとんどバンドメンバーみたいな位置で、つまりマリアのコンダクトを正面側から見ながら、そんなことを考えていた。なんかきっかけひとつで音楽の前線からいなくなってしまいそうな才能だな、とも思った。

終演後、ちょっとお世話になったスティーブウィルソンがおれのこと覚えていてくれて安心した。やっぱり来てたのね挟間ちゃん明けましておめでとう。彼女はファースト1曲めの「Wyrgly」が聞けたことに狂喜乱舞していて、しかしそのギターソロ、おれらは弦の生音聞こえる位置で聞いちゃったよー、と思った。ベンモンダー、幕間にずっとスイープの練習してて泣けたな。

体力が落ちているので一日臥せっていた。そろそろ無理やりにでも何かアクティビティを始めないと死の予感が強くなりすぎる気がする。アメリカ人、ジムやヨガでごりごり発散してるイメージあるけど、あれはああでもしないと肥満糖尿一直線の社会環境がさせてるのであって、住宅街で見かけるクリスマスのド派手電飾みたいなものだ。ああでもしないとぶっ壊れてしまう必然性にかられてやっているのである。

ここ数日めっきり、夢見悪すぎシーズンに突入していて、ひょっとしたらブログを再開したことと関係があるのかなーと思ったりする。自分について言及しない日々が続くと、当然だけど自己言及的な回路が細まっていって、内省も減るし過去記憶への遡行も減って、それはそれで無意識過剰というかいい調子なのだけれども、細くなったのが血管だとして、その壁にコレステロールか何かがへばりついて塞栓を起こしかねない状況にあるような気分にもなる。

自己言及はそこに無理やり血流を押し流すような働きがあって、それで剥がれて脳に飛んだ血栓が悪夢になって現れているイメージを抱いているのだけれど、おとついは何十センチもあるケツ毛を息子にドレッドに編まれている夢だった。目覚めたら息子がおれのケツの割れ目を踏みつけていたので根拠がわかって少し安心したけど、我ながら酷いなー。

晩、ブルックリンスティールまでNoname のライブを観に行く。音のハイファイさと舞台照明のよさがまず飛び込んできた。機材とスタッフ帯同でやれると、あのクオリティ出せるんだよなー。照明も、なんて機材なのかわからないけど最小限ながら曲に合わせて効果的に組まれていた。

サウンドは生バンド+サンプラーなんだけど、かなり音源再現に振ったディレクションだと思った。まず尺がほぼ音源どおりで、グルーヴしたからといってアウトロをエクステンドしたりしない。 個人的趣味から言えばちょっともったいなく思うけど、そのあっさり感がミックステープ世代なのかもしれない。

ご本人ははにかみ屋でちょっと内向的なムードも見せつつ、友達に話しかけるみたいな気取りのないステージング。そしてアラいいわねって思ってるうちにあっさり終わっちゃった。曲数が少ないわけでもないので、曲の尺が短いゆえの印象だけど、曲に展開作るくらいなら別の曲にしちゃう感じもいまっぽいのかな。

ただアンコールで出てきて、ごめんね用意してる曲がないの、と言いながらやおら伴奏なしでフリースタイルをドロップして、それがめちゃくちゃハイレベルなライムとフロウだったので、アメリカ!と思った。けっきょくどれだけ親近感ある芸風をプレゼンテーションしたとしても底にはマッチョイズムが強く流れていて、マッチョ性をクリアしないと上にあがってこれない。だからおのずと爪を隠すスタイルになるんだけど、爪を少しだけギラッと見せておくのが信頼を勝ち得るためのマナーなのかもしれない。

音源再現度が高かったので音源聞いてもらえばだいたいわかるんだけど、Noname のトラックはどれもリズムに少しだけ月並みじゃなさというか工夫があって、楽器をやる人間が何にも考えずに気持ちよくプレイすると絶対出てこない、少しフリーキーだったりトリッキーなパターンが頻出する。それがバンドの演奏でも再現されて、音像に新鮮さを吹き込んでいた。

客は黒人3割にアジア系1割、あと白人って感じで、おしゃれさん含有率が高かった。みんなヴァースまでしっかりリリック入ってて、ほんとヒップホップはスポークンワードのアートフォームだなーって再度思った。日本にいるときは重要度でいうとトラック3割くらいに思っていたけど、いまはトラック1割以下だと思っている。これ誇張や冗談じゃないです。

スタッフの人に新譜のヴァイナルいつ出るの?って聞いたら、あなたのサポート次第よ、新譜のヴァイナルが欲しければまずファーストのヴァイナル買ってちょうだい、できたらLP用のトートバッグも! って言われて、実は持ってるのにもう1枚買ってしまった。事実関係知らないけどチャンスとマネジメント一緒なのかな、考え方が似てる。